こんにちは、ガジェット大好き金欠おじさんです。
ついさっきこんな記事を見かけました。
ここのところのスマホカメラは進化がすごいですね。
肉眼よりも鮮明に風景を残すんだから。
これはもう補正の域を超えて、加工と言ってもいいくらいのレベル。
人間も、思い出を美化する思い出補正をよく使いますが、AIは映像が人間の脳に入る前に美化してしまうんですね。
こうしたきれいな写真を残す技術が現れてくる中で、TikTokやSNOWといった、画像も荒く、原型を留めないほど加工された写真、動画もまた支持されています。
この両極に思いを馳せると、一体写真とは何を写すものなのだろうか、ということを考えてしまいます。
その写真は誰のためのものか
まず考えるのは、撮影された写真は誰のためのものなのだろうか、ということ。
SNOWのような写真は第一に、その場に一緒にいた、もしくはそれを見る友人というごく親しい人たちのため。
それを一般公開すれば、同じような感性をもった人々。
何にせよ、全く違う境遇にいる他人には向けられていない気がします。
では、風景などの写真はどうか。
その場を訪れた本人や一緒にいた人々といった点はSNOWと共通だけれども、風景の場合、まったく知らない、境遇も感性も違うような人が見ても、それぞれの解釈で楽しむ可能性があります。
見た人それぞれが解釈して楽しむという点を考えると、写真はなるべく現実を忠実に残しておくほうがいいということになるんでしょうね。
そうなると、AIによる補正というものがとても役に立ちます。
これからのカメラの役割は
撮影技術に焦点を当てると、写真そのものとはまた違った視点が生まれます。
紹介したブログでも書いてあるとおり、これまでなら写真を何枚も撮って、選別し、合成して、色を調整するといった工程を撮っていました。
それが、シャッターを押した瞬間にすべて済むようになる。
そうなると、カメラの役割はどうなるのか。
レンズとセンサーさえあればあとはソフトウェアですべて思いのままになるならば、カメラという物体は、ハードウェアはなんのために存在するのか。
存在理由が、撮影者本人の欲求を満たすためだけ、という世界が訪れるんだろうか。
可能性は十分にありえそうです。
写真が写すもの
では、タイトルの疑問に戻って、写真は何を写すのだろうかを考えてみる。
もし仮に、真っ黒で何も写っていない写真があったとしたら。
夜友だちと撮っているときにフラッシュを焚き忘れたものだったり、カバンの中で何かにぶつかって勝手に取られたものであったりと、状況によって写真から伝わるものがいくらでも変化するでしょう。
物や背景の写真であっても、いつ、どのような心境で撮ったかを思い出すのに役立ちます。
そう考えると、写真が写すのは「人と人、あるいは人と物との関係性」と言えそうです。
AIは人々から思い出を奪うだろうか
では、AIによって、誰が撮っても同じようにきれいになる写真は、人々からその場その時で固有の思い出を奪うことになるだろうか。
そうはならないと僕は考える。
先程の真っ黒の写真の例のように、同じ写真を見ても見る人、相手、時間や場所によっていくらでも解釈が変わるのだから。
もしかしたら、写真そのものよりも、その時その場所で撮影したという事実だけがあれば十分なのかもしれない。
それこそ、写真をなくしたとしても、無くしたことでさえ思い出になるのだから。
むしろAIは、写真が残すメッセージにさほど影響を与えること無く、自分の撮った写真がきれいに残るという価値を付け加えてくれるのではないか。
そんな気がするのです。